当院は4月22日にお陰様で開院10周年を迎えることになりました。これもひとえに皆様方のご支援の賜物と心から感謝いたします。4月11日(土)には大学時代の友人を招いて記念講演会を開催いたします。10年という節目を機会に、クリニックの歴史を綴るという意味でもここまでの軌跡を振り返ってみたいと思います。個人的な感情、感想の羅列になり、お見苦しい個所もあるかもしれませんがご容赦ください。
(1)プロローグ
本原稿を書くにあたって、改めて当院ホームページにある「当院の診療理念」を読んでみました。普段は何となく気恥ずかしい思いと、理念は変わっていないという自負からほとんど見ることはなく、久しぶりに目を通すことになりました。実はこの「診療理念」は、10年前の開院時からさらに数年遡った頃に、ある地域で再開発に伴いクリニックを募集しており、その書類選考の際に書いた原稿の内容が基本骨格になっています。結局この話は、相前後して当時勤務していた河内長野千代田の国立大阪南病院(現大阪南医療センター)の循環器科医長に就任したこともあり消滅しましたが、当時から開業を志向していたことを思い出しました。また医者としての基本的考えはその頃にはある程度固まっていたということになります。
「当院の診療理念」には、「全人的医療」や「テーラーメード医療」という言葉が出てきます。また、病気ではないが健康ともいえない状態である「未病」の概念も織り込まれています。いずれの言葉も今でこそ浸透してきていますが、当時はおこがましくもこれらの言葉は私の造語だと思っていました。とくに「未病」は2000年前の後漢の医学書である「黄帝内経」に記載があるそうです。そのことを知ったのは13年前の大阪南病院在籍時に東京の北里大学東洋医学研究所が主宰する夏季東洋医学セミナーに夏休みを利用して参加したときでした。私の漢方勉強の基礎になったこのセミナーは、おもに学生や研修医を対象とし、漢方を中心に鍼灸など東洋医学について月曜から金曜まで1日中缶詰めで勉強するものです(土曜日は小石川植物園で漢方の生薬となる植物を勉強します)。当時卒業後17年目で受講資格からは外れていたのですが、どうしても漢方のまとまった勉強がしたいと思い研究所長に直接手紙を書いて参加を認めてもらいました。当時、大病院の専門医として循環器領域に特化した診療を行っていた一方で、「検査では異常がないけどしんどさが解消しない人にはどうすればいいのだろうか」「心臓は良くなったが足腰が悪いままでいいのだろうか」という思いが芽生えていました。
(2)開業への道
勤務医時代は、循環器専門医としての誇りと循環器疾患における地域の「最後の砦」としての覚悟を持って、診療、研修医の教育および研究に日夜携わっていました。とくに研修医の教育については、「循環器医である前に内科医であれ(循環器以外の疾患について勉強もせずにすぐに他科に紹介するな)」「医者である前にまず常識ある社会人であれ」をモットーにしていました。なかでも挨拶を含む礼儀作法や躾にうるさく、今ならパワハラと言われかねないくらい厳しい場面もありましたが、根底には研修医への愛情と患者さんへの責任感がありました。何年も経ってから彼らが研修医時代の指導に対して感謝していると人づてに聞いたときは報われた思いがしました(教育については後ほど述べる将来展望ともかかわってきます)。
医長に就任したのは当時の上司であった中真砂士先生(現田仲北野田病院名誉院長)が臨床研究部長に昇任されたため、当時の院長であり循環器科OBの木下直和先生と中先生に推挙していただいたようです。医長というポストに対する欲は全くなかったのですが、結果的には院内的にも対外的にも交流が広がり、一医者であるときよりも、直接間接を問わずより多くの患者さんのお役に立てたのではないかと思っています。しかし一方で、管理職の宿命として会議が増え、直接入院患者さんを受け持つことや研修医を指導する場面が減少し、臨床医としては満たされない部分も増えてきました。また、「心臓というパーツだけでなくトータルで元気になってもらいたい」という思いの解決策の一つとして漢方治療を考えましたが、病院で使える漢方は限られるため漢方診療の上達にも限界がありました。勿論、現在当院のリハビリで行っているような独自の手技を行える場面もありませんでした。以上のような様々なジレンマにより開業への思いは高まっていき、候補地を探すようになりました。
しかしいざとなると中々思うような場所は見つからず、一箇所では契約寸前までいきましたが、ハンコを押す寸前で取りやめになったこともありました。そんなある休日に父親と二人で不動産屋さんを巡りますが収穫もなく、疲れて北野田近くの交差点まで差しかかったときでした。北野田から通院されている患者さんがおられたので地名は知っていましたが土地勘は全くありませんでした。「この辺りからも患者さんが来られている」という私の話を聞いた父が近くの不動産屋さんに飛び込み、「再開発事業が進行しているので再開発事務所に相談に行ってみたら」という情報を得てきました。2004年の春頃だったと思います。そこで開業の意思を伝え、選定してもらい、翌年の再開発ビル(=アミナス北野田)のオープン時期に合わせて開院するという運びになりました。あのときに北野田の交差点を黙って通り過ぎていたら現在ここにはいなかったかもしれません。また木下院長には大変お世話になり、いつも少しでも恩返しがしたいという思いで働いていましたが、開院と同じ年に定年退官されることが決まっていたことも後ろ髪をひかれずに開業できた理由です。
開院1か月前まで病院勤務をしており、病院の仕事と準備を両立させることは本当に大変でした。内装業者に突然連絡がつかなくなるというトラブルにも見舞われ、内装工事が完成したのは開院当日の深夜という有様でした。このとき疲労の極限を救ってくれたのが現在当院のリハビリで使っているピットであり、自分の体験から採用しました。開院後にリクルートから開業希望の勤務医向けセミナーで講演を依頼された際、そのタイトルを「もう二度と開業準備なんかしたくない」としたくらい準備に追われていました。そんな中、ブルーシートと長椅子を軽トラックで運び、二日間にわたり長時間のスタッフ採用面接に付き合ってくれた後輩の松下英嗣先生には、その後も幾度となく力を貸していただきました。この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。
(3)この10年
先ほど述べたリクルートの開業セミナーの抄録を見ると、「現在開業して4年余りですがこれまでのところ開業の準備が最も大変でした」ということが書かれています。今の私が4年目の自分に声を掛けるとしたら「甘いな。もっと覚悟しとけよ」というところでしょうか。それこそここでは書けないような様々な出来事がありました。「患者さんにエネルギーを与えるためには自分が元気でなければならない」「しんどいときにしんどい顔をしないのがプロである」という気概で苦境を乗り越えてきたつもりです。多くのことを学び、「人生は修行である」ということを改めて噛みしめた10年でもありました。ここでは印象に残る出来事をいくつか思い出すままに記したいと思います。
1) ある勉強会での一場面
開業してすぐにある製薬会社主催の糖尿病の勉強会に出席したときのことでした。これまで循環器疾患の勉強会では理事や世話人をしていたこともあり、製薬会社の担当者の方も顔馴染みでしたが、専門外である糖尿病の担当者の方は誰も私の顔を知りません。そのときに自分が開業医の中では新人であり、また一から力を付け世間に認めてもらわなければいけないのだということを改めて心に刻みました。若干の悔しさとともにこれから頑張ってやるぞというモチベーションの一つになり、その直後に東京での一泊二日の糖尿病セミナーに参加しました。その後は糖尿病の新薬の治験を2件依頼され、また糖尿病関係の勉強会でも何度か講演する機会を与えられるようになりました。
2) 荒野に一人立つ
勤務医時代は大きな組織の一員であり、窮屈な面もありましたがある意味守られている部分もありました。しかし、開業すると当然ながら診療のみならずクリニックの経営、運営も全責任を負わねばならず、最終的に一人で立ち向かわねばなりません。そのことに気づいた時の心境は、まさに西部劇の一場面の様な荒野に一人で立っているイメージでした。始まったばかりでこれからどうなっていくのかを考えたときに、医者に限らずどの業界においても独立起業し、その事業を継続させていくことの大変さに思い至り、本当にやっていけるのか不安にかられたことを思い出します。
3) ローズクラブについて
開業2年目にクリニックの隣に「ローズクラブ」を開設しました。当初のコンセプトは「生活習慣病患者さんの運動療法に対して最後まで責任を持つ」というものでした。どの医者でも「運動しなはれ」とは言いますが、実際にするかどうか、するにしても継続のモチベーションをどう持ってもらうか、あるいはその効果をどうフォローするかは医者の手を離れ患者さん任せになっています。すなわち、「運動しないとダメですよ」と言った時点であとの責任は患者さんにあり、医者にとってはその言葉が「ちゃんと指導した」という免罪符になってしまっているのではないかという思いがずっとありました。そこで、高齢者でもできる筋トレマシンや有酸素運動の器具を揃え、メディカルフィットネスと名付けたスポーツジムを立ち上げました。対象は基本的に通院中の生活習慣病患者さんで、体脂肪、内臓脂肪や全身の筋肉量の測定データを毎月の診察のなかで一緒に振り返ることでモチベーションを維持し、運動の効果をともに体感していこうとしました。しかし残念ながら経営的に成り立たず、惜しむ声も多数いただきましたが2年経たずに閉鎖に追い込まれました。
しかし、コンセプトは今でも正しいと思っていますし、患者さんに「運動しましょう」と言った責任を患者さんと一緒に背負い、運動療法の効果を最後まで見届けたいという気持ちに変わりはありません。また、当初は生活習慣病との関連しか考えていませんでしたが、「いくつになっても筋力は鍛えられる」ということを知りました。入会当時80代後半で初めは一人で歩けなかった方が、運動を継続されることで杖をついて歩けるようになり、今では杖なしで歩いて元気に通院されています。他にも多くの高齢の方が元気に明るくなられる姿を目の当たりにし、運動の重要性とともに人間の能力の無限さを教えられたことがローズクラブから得られた最大の収穫でした。生活習慣病はもちろんのこと、超高齢社会の最大の課題である健康寿命をいかに伸ばすかの解決方法として、何歳になっても運動が貢献するものと確信しています。メディカルフィットネスについては捲土重来を果たしたいと思っています。
4) ご縁
病院での私の外来診療は週に3日だけでした。しかも循環器科は3診も4診もありますから、初診の患者さんの診察を私が担当するのは本当に偶然であり、「この方とはご縁があるのだなあ」と感じていました。また、研修医が大学の医局人事により多くの病院の中から我々の病院に派遣されるというのもよく考えればすごい確率であり、不思議なことだと思います。すべからく人と人のつながりはご縁であり、これまでも「袖擦り合うも多生(他生)の縁」「一期一会」という言葉を大事にしてきました。そしてこの10年の間にも様々な出来事によってさらにその大切さを教えられています。
患者さんが多くの内科診療所がある中で当院を受診されるというのも、きっかけは色々でしょうがやはりご縁があるとしか言いようがありません。病院時代からお付き合いのあった患者さんが、開業当時あるいは開業して何年か経過してから橋本や河内長野、富田林などからわざわざ来ていただいています。また、勤務医時代に経過良好で診察を終了した患者さんが、その後何年か経って病院を受診された際に私が開業したことを聞かれ、その足でクリニックに来られたケースも少なからずあります。さらに、病院時代に診察していた患者さんがお亡くなりになった後にご家族がクリニックに通院されているケースもあります。病院時代は「国立病院の医長」という看板もあったかもしれません。しかし今は私個人を信頼してきていただいていると思うと、このご縁に応えられる人間であらねばならないという責任を感じ、身の引き締まる思いがしています。
また、看護師さんが体調不良で急遽退職するという事態が起こり、一時は夜の診察に看護師さんがいないということがありました。病院時代に一緒に働いていた看護師さん達がその話を聞きつけ、交代で馳せ参じてくれたお蔭で危機を乗り切ることができました。その時々に与えられた場で一生懸命働いていたからこそいいご縁に恵まれたのだと思い知らされた出来事でした。何年も前の仲間への感謝とご恩を忘れることはありません。
スタッフとのご縁もご紹介します。リハビリの春崎さんと受付の和田さんはほぼ開院当初から勤めています。リハビリリーダーとして責任感が強く患者さん思いの春崎さんは受付の女性と社内結婚されるご縁までありました。和田さんの穏やかで優しい人柄によりクリニックの雰囲気が和らぎ、患者さんのみならず我々スタッフにも安心感を与えてくれています。最近はリハビリのスタッフとしても一生懸命勉強し活躍しています。受付の森田さんは出産を機に一旦退職しましたがその後復帰しました。受付責任者としていつも問題点を拾い上げ、クリニックの質向上を考えてくれています。最年少スタッフである受付の松川さんは新卒で就職しました。その頃森田さん、春崎君の奥さん(旧姓大下さん)が出産準備のために相次いで退職し、新卒にもかかわらずいきなりリーダーになるという苦境を、素直さと賢さと度胸を発揮して見事に乗り切ってくれました。リハビリの徳原さんは当初はローズクラブ勤務で、閉鎖後クリニックスタッフに転身しました。よく勉強し的確な意見を述べてくれるとともに患者さん向けの体操教室にも貢献しています。看護師の窪田さんには忙しい身でありながら無理を言って助けてもらっています。はーとだよりの巻頭絵もお願いし、いつも数分で書き上げる凄腕の持ち主です。看護師の天野さんは子育てが一段落した仕事復帰の最初の場が当院でした。当初は不安一杯のようでしたが、今では落ち着いていつも優しく患者さんに接しており私の心が和むこともしばしばです。一番新しいスタッフである受付の池側さんは、患者さんと同じ目線を常に忘れずに患者さんに寄り添ってくれています。
最後に伊藤看護師とのご縁を紹介します。彼女と知り合ったのは私が国立大阪南病院に赴任した20年前に遡り、当時循環器科の外来副師長でした。そこで一緒に仕事をした約3年間で信頼関係が築かれたのだと思います。その後、国立舞鶴病院の外来師長に栄転してからもたまに当時の仲間と一緒に食事に行っていました。ちなみに、私は当時全国国立病院の「最年少医長」だったそうですが、伊藤さんも「最年少看護師長」でした。師長を退職した後は、診療所、透析専門の一般病棟、療養型病棟、在宅訪問看護ステーションと看護師としてはほぼすべての職種を経験し、その間に糖尿病療養指導士やケアマネージャーの資格まで取得するというまさにスーパーナースです。開院時にも当然のように声を掛け、また上で述べた当院の看護師不足のときも相談をしましたがいずれもタイミングが合わず諦めていました。ところがそのすぐ後に、勤務先の訪問看護ステーションが統合閉鎖されることになり今後どうするか迷っているという連絡がありました。この機を逃さず一気にアプローチをした結果当院に迎えることができました。閉鎖の話も突然降って湧いたような話であり、奇跡ともいうべきご縁で繋がっているように感じました。「クリニックにお嫁に来るつもりで頑張ります」という言葉を聞いたときは、責任と覚悟に震える思いでした。その後の活躍は言うまでもありません。嫌な顔を一度もすることなく、朝早くから誰に対してもいつも笑顔で応対する伊藤さんには、他のスタッフと同様、心から感謝しています。
5) 氣と心
私は開院後に合気道を始め今年で8年目になります。今年は三段の昇段審査が控えていますが、初段になり黒帯を締める責任感が生じた頃から武道関係の書物をよく読むようになりました。またその当時、肚をくくらないと乗り越えられないような問題を抱えており、どうしたら肚を作ることができるのかを模索している時期でもありました。空手の宇城憲治師範が主宰する宇城道塾(空手道場ではなく氣について学ぶセミナー)に月1回夜の診察を休診にして1年間通ったり、最近ではロシアの合気道とも呼ばれるシステマという格闘技も経験しました。また、極真空手の元全米チャンピオンの先生に身体の動きなどを教えていただく機会もあります。一方、精神的にも苦しい時期であったことから宗教に関心を持ち、実際に触れる機会もできて自分自身救われたと思えるような経験もしました。ちなみに、患者さんに教えていただきこの半年間で2回高野山に写経に行きました。武道も宗教もあるいは哲学も、覗けば覗くほど深遠な世界であるという事実が突き付けられるのみであり、私などが語れる筈もありません。ただ、それぞれの表現は異なっていても追求する真理は一つであり、心が一番大切だということに収束していくように思います。氣は人間が持っている一番純粋な部分、すなわち魂、心あるいは仏教でいう「阿頼耶識(あらやしき)」から起こるのではないかと解釈しています。つまり、本来誰もが氣を発したり感じることはできますが、心を磨かないでいると純粋さが失われ、いい氣を発することができなくなったり、氣を感じる感度が鈍っていくのだと思います。また、自分の魂の声が聞こえなくなると頭で考えることを優先する結果、地位や肩書に惑わされ本当に大事なものが見えなくなるようになってしまうのではないでしょうか(はーとだより10号をご参照ください)。心を磨くためには、常に謙虚な姿勢で、我欲や利己心を捨て、決して逃げないこと、そして自分が果たすべき役割を自覚し、迷った時はそこに立ち返ることが大切だと思います。その結果、肚ができ、肚が据わる様にもなるのではないかと考えています。これからも日々すべてが修行と心得、自分の魂を磨くことに努め、頭ではなく心で人と繋がっていきたいと思っています。診療の場では、一人一人をリスペクトし、正面から真摯に誠実に向き合うように努力していくつもりです。
(4)エピローグ-次の10年に向けて-
1)勉強
研修医に対して「知識と技術とハートが医者の最低の三原則である」ということをよく言っていました。これは恐らくどんな仕事にも当てはまることだと思います。さらに、「この三原則で一番大事なのは何か?」という質問を研修医にすると、ほとんどは「ハート」と答えますが、私の答えは「技術」です。こういうとこれまで述べてきたことと矛盾するようですが、ハートをないがしろにしている訳では勿論ありません。「今井はーとクリニック」のひらがなの「はーと」には、単に英語の心臓という意味だけではないという強い意志とこだわりが込められています。開業前に役所から「ひらがなの入った医院名は前例がないので認められない」といわれた際には、直ちに抗議文を送り認可されたという経緯もあるほどです。しかし、いくらハートがあり優しくて思いやりのある人柄であったとしても、治療する技術が劣っていれば医者として一流とは言えません。優先すべきは診療技術であり、並行して人間力を鍛えていかねばなりません。気が付けば私も医者になって来年で丸30年になります。自分では全く自覚はありませんが周りから見ればベテランなのかもしれません。確かに、これまでの経験を生かして若いときにはできていなかった診療をしているなと自分で思う時はあります。一方で、新しい知識や治療技術によって医者としての引き出しを更新することを怠っていないかをいつも自省、自戒しています。毎月1回日曜日に全国の医師40人程度が集まり、9時から17時まで休みなく勉強する1年間単位のセミナーが東京であります。内科全般のみならずそれ以外の分野からの幅広い症例検討を中心としたプログラムで、NHKの「ドクターG」という番組に出てくるような蒼々たる先生方が講師を務めます。一昨年初めて参加し、行くたびに疲れるほどの知的興奮と勉強への刺激をもらいました。月1回ですがかなりしんどいため今年はどうするか迷っていましたが、自分のレベルアップのためには逃げてはいけないと思い参加することにしました。このセミナーに限らず、現役を引退するまで診療技術を磨き続けていきたいと思っています。
2)教育
医学部の偏差値は昔よりも高くなり、大学病院にいる友人に話を聞いても最近の研修医は我々の頃と比べて知識の面では非常に優秀だそうです。一方で、近隣の大きな病院の若手医師達と紹介状を介してやり取りをしていますと、文章力に始まり治療に対する考え方など医者のレベルが低下しているのではないかと感じるときがあります。なまじ偏差値が高いだけに頭で考えることが優先し心の部分が疎かになったり、あるいは社会人としての考え方や人間力を鍛えられる場が減っているのではないかと危惧しています。最近は医学生や研修医の教育カリキュラムに診療所での実習が組み込まれることがあり、当院も研修の場として立候補してみようと考えています。自分では開業医として学生を教育することなどおこがましいレベルだと思ってこれまで躊躇していました。しかし、肩肘張らずに一緒に勉強するという姿勢で臨めばいいのだと考え、少しでも自分の医者としての哲学を伝えることも自分の役割だと思うようになりました。ここ1,2年の間に実現させたいと思っています。
(5)すべては感謝
しんどい時や落ち込んだ時に励まし、自信を与え、支えてくれた友人を始め多くの方々。私を信頼しありのままの私を受け入れてくれる西崎隆文君、京宗三君、吉野茂文君、西尾秀樹君。とくに数年前の同窓会の帰りに新山口駅の居酒屋で新幹線の時間を変更するほど長時間にわたり西崎、京の両君が私の話を黙って聞いてくれた場面は忘れません。どれほど救われたことでしょう。開業以来いつも気にかけていただいている恩師の佐藤秀幸先生。妹、おじおばを始めとする親戚一同。そして両親と家族。ここにお名前をあげることができなかった方々も含めて私とご縁のあるすべての皆様に心から感謝を申し上げて筆をおきたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。